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【第二十一回】 太平記 part.21 『京都攻略』

679 :日曜8時の名無しさん:2014/07/06(日) 22:58:01.21 ID:AMjExpG+
>>676

>安達景盛
小田野兼広(三河国八名郡小野田)→安達盛長(三河国小野田荘地頭、三河守護)→安達景盛(三河国小野田荘地頭、1221年まで三河守護だったか?)

細川重男氏(『鎌倉政権得宗専制論』2000年吉川弘文館69〜71頁)は盛長が
三河守護となったのは三河国に縁のある三河国宝飫小野田荘の小野田氏庶流で
あるからとする。
また、福島金治氏も、盛長の小野田姓の由来には同荘があるのではないか
とされている(『安達泰盛と鎌倉幕府』2002年有隣堂新書14頁)。

ところで、三河国は頼朝の異母弟範頼の単独国務国司として、
1183(元暦元)年から失脚する1193(建久4)年まで継続していた
(金澤正大氏、「蒲殿源範頼三河守補任と関東御分国」『政治経済史学』第370号1997年4・5・6月)。
そして、範頼は盛長婿(正室は比企尼長女と盛長の間の娘)であり、
両人は比企ファミリーの一員である。
とすれば、『尊卑分脉』の兼盛・盛長の傍註「小野田」から盛長を三河国に
結びつけるよりも、範頼失脚後の三河国を頼朝の伊豆流人時代からの側近で、
比企ファミリーの一員で、かつ範頼舅であった盛長に三河国を任せたのは当然である。

「小野田」地名は三河に限らず、全国各地にあり、関東内でも上総国小野田郷
(千葉県長南町下小野田)があるのであり、『萩藩閥閲録』巻73では、
遠元の養子との傍註のある天野遠景に関して、その曽祖父としての兼広(盛)の
傍註に「上総国小野田郷領之ス」とある
(『萩藩閥閲録』第二巻1968年山口県文書館85頁)。
すなわち、足立氏が上総国小野田郷出身としている。

もし、盛長が三河国小野田氏庶流出身なら、盛長とその子孫が鎌倉幕府での重鎮と
なっている以上、三河国在住の小野田氏は御家人に列せられていよう。
そこで、「六条若宮造営注文」
(海老名尚・福田豊彦氏、「『田中穣氏旧蔵典籍古文書』「六条八幡宮造営注文」について」
『国立歴史民俗博物館研究報告』第45号1992年12月)を見ると、
三河国御家人として小野田氏は記載されていない。
それのみかその存在を明証する史料所見はおろか、三河国小野田氏の
存在を微証する史料の存在も他に見られないのである。
すなわち、両氏の説には無理があるといわざるをえない。

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